fc2ブログ

Skarocksteady Soundsystem

音楽と写真と暮らす毎日

北炭幌内炭砿布引坑 扇風機 

布引 扇風機 001
いったん外へでて位置関係を確認してみると
どうやら少し上部に位置するあの建物に連結しているようだ。
直接繋がる道はないので藪漕ぎをして登ってみよう。



布引 扇風機 002
あたりには碍子みたいなものが散らばっていた。
電線もついたままだ。
入口は南京錠がかかっているので窓から潜入する



布引 扇風機 003
内部には心得がたくさん貼ってある。
坑内で働く男たちの命を握る重要な仕事だからだろう



布引 扇風機 004
運転手各位
扇風機運転の際は・・・・・・


布引 扇風機 005
本沢地区の原動機室にあった
原炭ポケット1000ビンの図の字に似ている。



布引 扇風機 010
運転台のレバーは錆ついて二度と動くことはない。



布引 扇風機 006
届け出してある旨の木札か
札鉱保炭届扇第190号






布引 扇風機 007
バケツには未だ液体が入っている。
当時のものだろうか?



布引 扇風機 015
各機械類にも手書きの注意書きが書かれた札が下がっていた





布引 扇風機 012
窓の下には
これまた運転には危険をともなう機械類が。





布引 扇風機 011
計器類も黙ったままだ。



布引 扇風機 009
扇風機本体
錆びがすごい。かなり大型な本体だ
圧倒的な存在感で怖くなる。





布引 扇風機 008
この本体の裏側には人間の糞みたいなのがたくさん転がっていた。
キツネだろうか。近くにはそれくらいの動物が通れそうな
穴があいている。




布引 扇風機 014
外の雨は土砂降りになってきている。
薄暗い室内だ。弱い光が使われなくなった機械類を
寂しく照らす。





布引 扇風機 016

11月28日

菊池

異状認めず

…そして
この日より巡廻板が更新される
事も無く
閉山を迎えた。
スポンサーサイト



北炭幌内炭砿布引坑 斜坑 

布引 斜坑 001
奥に向かって左手のほうに遺構が見えたので向かうと
川が足下1mに流れています。
泥で隠されたボロボロの橋を渡った対岸には密閉なしで斜坑が口を開けていました・・・
足元に散らばるコンクリートがもしかしたら
密閉されていて崩れた残骸かもしれません




布引 斜坑 002
これいいんでしょうか?
斜度はもの凄いです。レールらしき軌道が漆黒の闇に右に曲がって消えていきます。
ある程度まで滑りながら降りてみましたがあまりの恐怖で
途中で引き返しました。耳を澄ますと闇の方から水の流れる音が聞こえています。





布引 斜坑 004
恐怖と興奮で酸欠になりながら先へ進むと
怪しげな通路があります。中腰ですすんでみると




布引 斜坑 006
ちがう斜坑の側面に出ました。
これは密閉されていてガス抜きの処理がされています。


布引 斜坑 005
斜坑をよく見ると上部にも穴があいており見たことのない形状です。
上部の穴の先をたどって後ろを見上げてみると



布引 斜坑 007
この変な形状の穴に向かっています。
内部を見てみます



布引 斜坑 008
どうやらまた暗闇にすすんでいかないとならないようです。
しかもおどろおどろしいし。





布引 斜坑 009
白い柱を境に右と左に部屋が分かれているようです。
とりあえず鉄梯子のしっかりしている左を登ってみます。





布引 斜坑 010
予想はしていたが闇だ。
少しだけ光が漏れているのでそこに向かってすすんでみます。
ある程度進んだところで足の感触がコンクリートから鉄に変わりました。
さらにもう一歩進んだところで足先に崩れる感触が。
どうやらこの鉄板の下は空洞になっているみたいです。
軽く叩くとコーーーーーンと下の方で響いています。
軽いパニックで引き返し右側の部屋に入ることにしました。





布引 斜坑 011
わざわざ下に降りるのもあれなので
真ん中の白い柱を抱くように右の部屋へ
・・・・しかし右側の部屋も同じでした。
グラグラしていて今にも踏み抜きそうだ
意を決し錆びた鉄板の上を少しずつ
少し進んだ先には



布引 斜坑 012
・・・!?
穴が開いている。
見たくなかったのですが、
足下はかなり深い濁った水が溜まっていてプール状態に
なっているようです。





布引 斜坑 013
そこで見たものは
巨大な扇風機の羽だ。
やはりあったのです。



何十年という年月を超えて。











北炭幌内炭砿布引坑 風洞トンネル 

布引 風洞 005
北炭幌内炭砿布引立坑風洞トンネル
平成元年閉山前は排気立坑として使用。風洞トンネルを建設した。
現在も入り口は残っていますが、藪が深く、確認できるのは秋~春にかけてのみです。
熊の出没に注意が必要です。
(そらち産業遺産と観光より)




布引 風洞 002
壁だと思っていた外周の一部に穴が空いています。
近づいてみることにします。


布引 風洞 003
苔にびっしり覆われていますが、やはりトンネルのようです。




布引 風洞 004
入口には針金が何本も張り巡らされています。
これもアートの残骸らしいのですが、今は
水木しげるのゲゲゲの鬼太郎の世界となっています。





布引 風洞 006
入ってみると二股になっており片方は土砂で埋もれており閉塞間近となっていました。
念のため土砂を登りましたが脆く崩れてしまいます





布引 風洞 007
もう片方は遠くに光が見えるので空いているようです。
地面は水没していて出口の穴が水面に映りこんでいます。




布引 風洞 009
内部から壁面を見てみるとしっかりとしたブロック積みで損傷はさほどない印象
出口方向から差し込む光によって見えたブロックに
古のロマンを感じます。




布引 風洞 008
側面には何かの為の穴が開けられています。
この穴は立坑方面に向いて空いています。





布引 風洞 010
出口には排気扇風機があった台座と鬱蒼とした藪が広がっています。
巻揚室からは高低差があり藪があるうちは発見も困難かと思います。


布引 風洞 011
怖いです。
風洞内も高低差があり奥の方からは光が洩れていません。
この位置へは
林道の布引の入口の横に上に向かう道がありますので
適当なところで藪こぎをするとアクセスは良好です。
ですが恐怖の木の梯子をわたらないとなりません



布引 風洞 012
出口を背に来た道を引き返して探索を続けます。
風洞内に足音が反響している・・・。

北炭幌内炭砿布引坑 巻揚室 

布引 001
布引アートプロジェクト2009年
炭鉱の記憶推進事業団により開催されたが
危険な箇所が多かった為かそれ以来開催されていない・・・。







布引 015
植物のアーチによる入口より内部へ
奥には過去に行われたアートプロジェクトのステンドグラスが
そのまま放置されている。





布引 017
入口の扉は横の壁に立てかけられている。
画像ではわからないがこの扉かなり大きいです。
2mはあるんじゃないでしょうか




布引 004
使われなくなった窓の連続に強烈な寂しさを感じる。
気がつけばメモリの中はこういう写真ばかりになっている。





布引 018
投石による穴だろうか。
この光の量、絶妙だ
黒白にこだわるのは光と影を表現
したい為だ。


布引 005
白いコンクリートに黒い染
やはり錦の巻き揚げと似たような形状をしている。




布引 016
天井は高く細長い窓が異国の建物に見えてくる。
実際の色のある世界はステンドグラスがランダムに配色されているが
それはそれで悪くはない。




布引 019
目を奪われる僕がいた。
外部と繋がっていた機構はなにも残っていないが、
その穴からは一縷の光が差し込んでいた




布引 020
その光の先には朽ち果てた鉄が。
これもアートなんだろうか?



布引 007
外へでてみると立坑の密閉跡がありました。
管が空へ向かって伸びています。



布引 014
ここから先はハードになっていきます。
真っすぐ歩くことは基本的に困難で基礎の穴やらトタンが散乱していて
気が抜けません。


布引 006
基礎が残っています。
うっかり足を踏み外すと基礎の湯船に浸かることになります。
探索をしているとこの南国風の植物にかなりの確率で出会います。



布引
本物の浴槽も打ち捨てられています。
水風呂でしょうか?




じゃあさっきから視界に入っている気になる遺構に近づいてみます。

北炭幌内炭砿布引坑 

布引 021
北炭幌内炭砿布引坑
現在立坑櫓は解体され、巻揚げ室のみが残っています。
平成元年閉山頃まで、幌内炭鉱の主要坑として稼働していました。
見学時には熊の出没に注意が必要です
(そらち産業遺産と観光より)


前回の探索で本沢地区、新幌内に行ってきましたが、
今回はその中間に位置する奔幌内地区は布引に行ってみたいと思う。

布引 022
本沢地区より奔幌内川に沿って林道を走ると幌内橋にでる。
上記にも書きましたが数か所の木には引っかき傷が付いていますので注意です。
念のためクマ避けのベルを装着しホイッスルを吹く

布引 023
その道を行けばすぐに布引坑はある。
危険により立入禁止。道も数日降り続いた雨できわどい個所もある。
遠くの方からは鉄道村のSLの汽笛がホーホー鳴っている。
家族連れの楽しいひと時が目に浮かぶようだ。

布引 002
鉄道村から木の海を挟んだジャングルの奥地にはこうして過去のものが残存している。
遠くの汽笛と相俟って時代の隔たりを嫌でも感じさせられた。
密閉箇所は多数ありいたる所から管が伸びている。
北炭の看板も25年経つのか。

布引 008
まず最初に目にする遺構はこの小さい建物。
危険物庫か?さすがは煉瓦しっかりしている。
扉は鉄製でやはりその用途と思われるが

布引 003
もう少し足を進めると長い年月により上部は骨組みだけになった建物がありました
屋根は早い段階で無くなってしまったのでしょう。
内部は植物が生い茂っている。

布引 011
木製の窓枠も時間の問題だろう。
この日は雨で黒い雲が多くどんよりしていて僕の趣向にあった写真が撮れる。



布引 012
この建物には多数の消火器が散乱している。
年代物なので腐食している可能性も。
中のガスは大丈夫なのだろうか?





布引 013
よく見てみると北炭と書いてあるラベルが貼ってある。
意外と北炭の残留物はお目にかかることが少ないように感じるが。




布引 010
撮った写真を見返してみるとこの煉瓦は焦げたような跡があった




布引 009
消火器の部屋から出ると目の前には巻き揚げ室がある。
遺跡化している。蔦がものすごく煉瓦を這っている。
一年の内、その全貌を現す時期はごく短い間だけなのじゃないだろうか

じゃあ内部に入ってみます。




※帰り道
布引坑を出たすぐに警察が張っていました。恐らくはサボってたんでしょうが
町中がパトカーだらけでした。
行く方は
立ち入り禁止地帯ということを忘れずに
素敵な過去との邂逅を。

美唄炭鉱 

美唄炭鉱 008
三菱美唄炭鉱(1915~1973)
1913年、独立系の飯田炭鉱として開発が進められたが、1915年に三菱が買収して三菱美唄炭鉱となる。その後、三菱鉱業美唄鉄道線を開通させ生産量を伸ばし、大夕張と並ぶ三菱の主力鉱山として名を馳せた。最盛期の1944年には年間180万トンもの生産量を誇った。1973年に閉山。
かつて都市としての規模を誇った常盤台地区は、閉山と共に多くの住民が去った。現在は公園として整備されているが、ほぼ無人地帯となっている。(wikiより抜粋)


美唄炭鉱 003
我路より更に山方面に車を進めると対岸へ渡る廃橋同然の現役橋が辛うじて
残存している。
そのまま道路沿いに進むと炭鉱メモリアル公園に到着します。

美唄炭鉱 006
三菱美唄炭鉱立坑巻揚櫓(1923~現存)
炭鉱メモリアル森林公園内に残るリベット打ちの立坑櫓。道内で二番目に古い建築です。入気、排気二つの櫓がそびえ、現在は赤く塗装されていますが、これは竪坑建設当時の色といわれています。1923(大正12)年建設、1972(昭和46)年閉山。1944(昭和19)年には189万tの出炭を記録しました。(そらち 産業遺産と観光より)

広大な土地に聳え立つ立坑は必見じゃないでしょうか。
数年前訪れたときにはありませんでしたが、説明看板がしっかり立っていました。



美唄炭鉱 007
保存とはいっても形あるもの必ず朽ち果てていきます。
上方から落下したであろう色んなパーツが撤去されずに脇へ集められている。
無人でしたので立坑直下へ
足元には深い穴があったのか・・・。


美唄炭鉱 009
三菱美唄炭鉱原炭ポケット
炭鉱メモリアル森林公園内に残る炭鉱施設。
掘り出した石炭を一時保管するためのもので、
現存するものの中では道内最大といわれています。
コンクリートの格子模様が特徴的です。(そらち産業遺産と観光より)

公園に入って最初に目に付きます。
夏なので緑に隠れていますが巨大なポケットというのはわかります。
文句なしの存在感。恐怖を感じる


美唄炭鉱 005
三菱美唄炭鉱開閉所
立坑の運転・管理を行った建物。
念の為、ドアに手をかけましたが開きません。


美唄炭鉱 004
調べていたので分かっていたが
どうやらこの藪の向こうに行く必要があるそうです。
結構な夕方に広い公園で原炭ポケットに睨まれながら
独り佇んでいると 鹿が出てきました。
出てくるまで気づかなかったのか
僕を見ると慌てて原炭ポケットの斜面を駆け上がっていきました。

美唄炭鉱 002
少し歩くと開けた場所にでます。
山肌にやはり2連の坑口はありました。
坑口に気を取られていると穴に足をとられます




美唄炭鉱 001
三菱美唄通洞抗口
目の前は鉱水がたまっている。扁額ははずされています。



美唄炭鉱 010
一旦道道に戻り更に進むと廃現役橋が
進みたかったが一人では危険なので撤退しました。


美唄炭鉱 011
帰り道
対岸の方には
三井美唄炭鉱第2坑原炭ポケット
漏斗の形は三井型と呼ばれているらしいです。


夕日を見ながら札幌に帰りました


2013101822482708d.jpg


我路の町 

我路 001
ここは炭鉱があった町。
S48.11.22 北菱我路炭鉱 閉山
現在その名残を見せてくれるものは数少なく廃墟と現役が入り混じった町という印象だ。


我路 005
1本裏道に入ればこのとおり町が無かった頃に還ろうとしている。
1時間弱我路の風景を写真に収めつつ満喫したが
誰にも会わなかった。
世間がここをゴーストタウンという所以が
こんな光景に感じているのかもしれない


我路 003
沢の方へ降りていくと
地元の名士で議員をやられていた方の生家があります。
ここだけは若干手入れがされているようです。
その横の道には沢がありますので降りてみます


我路 004
けっこうな速さの流れで圧倒されます。
しばしの間見とれていました。


我路 002
裏通りに戻ると石造りの蔵がありました。
見てのとおり空襲にあったかの様に上部が吹き飛んでいます。
北海道の雪の重みには勝てなかったようです。


我路 006
裏通りの端まで行くと有名な
焼き鳥ガロ があります。残念ながら店は開いてませんでした
5年位前にここの方と話した記憶があります。

我路 007
以前は看板がついていた形跡があります
夏の終わりに訪問しましたが窓の冬囲いがついたままです。
全てにおいて光が当たることはもう無くなりました。

我路 016
我路の方達の娯楽だった映写機があった部屋が残っていますが
夏の終わりにそれを見ることはできません。
一時代の残骸を植物が必死で隠そうとしてる様にも映ります。


我路 015
山側へ渡ると羆出没の看板が。
自然に還りつつあるがまだもう少し待っていて欲しい。
いつかはそうなってしまうだろうがまだヒトがいる限り
くだらない傷を負ってしまう。


我路 010
自然との最後の境界線
煉瓦作りの美しい塀で囲まれた区画があります

我路 008
その中には廃の雰囲気をまとった
明らかに住宅ではない建物がありました。


我路 011
表側に移動してみるとシャッターが6枚くらい並んだ倉庫みたいな造りになっています。
危険物取り扱い・・・・的な事も書かれていましたが
結局わかりませんでした。


我路 009
それらの建物と連結して建っているのが
旧美唄炭山郵便局です
現在は我路簡易郵便局兼我路生活館となっていました。
煉瓦には蔦が似合います。
ずかずかと敷地内に入って写真を撮っている僕に気づいたはずですが
咎められる事はありませんでした。


我路 012
一通り廻って車に戻ろうとしたところ
窓ガラスが割れている家がありました。
2階の窓にはレースのカーテンが見えます。
どんな結果になるのかは気持ちの中ではわかっていたはずですが、割れた窓を
僕は覗いてしまいました・・・・。




我路 013
残酷なまでの寂しい光景が待っていました。
おそらくは身よりも無く亡くなってしまったのだと思います。
信心深い主は神棚に毎日ご飯と水を絶やすことはなかったのでしょう。
神棚の横の棚には夫婦と思われる写真が飾られています。
履かれる事は無いまま最後の
靴下が干してありました。


我路 014
時計ももちろん止まっています。

カレンダーもあの年で終わりました。

誰も居なくなって何回の夏が過ぎたのでしょう






またやってしまったという
気持ちは拭えることなく
我路を去りました。


炭鉱の町に生きた 2  

万字 003
ここは炭坑があった町。
閉山後はジリ貧で特になにもできないまま最期の瞬間を待っている。

万字 005
歪んでしまった家は異空間となっている。
ブラックアウトしてますがこの家の主の背広がかかっていました。
向かいには旅館もあったぐらいの町だったのに
最後の住民となって何年たったのだろう。

万字 004
裸電球がさみしく残っています。
暗かったのでしょう
違う電源からも線を引き込み輪状にした線に電球に載せています
電球も2個ならさみしくないでしょう。


万字 006
家財道具もそのままに放置されています。
日本人形だけは誰もいなくなったあの時を見ています。
鹿の角が転がっています・・・。
置いてある電話が鳴ることはもうありません

万字 002
この家の横には蔵があります。
三井風の紋がついています。
しっかり残っているなと思ったら屋根が落ちていました。

万字 020
防火水そう
錆びても錆びても直す必要はありません。

万字 001
この家の方は多分亡くなってしまったのだろう
年老いて引き取り人もいないのでしょうか。
窓が割れている空き家だと思っていた家には
生活の跡が確かに残っていた。
最後に片付ける人間もいないまま放置された。
日本人形はあの日どんな光景を見たんだろう。



遠くのほうで正午を教えるサイレンがアーアーと鳴った。
僕は開いていた窓のカーテンを元通りに閉め
そっと立ち去った。

炭鉱の町に生きた 

万字 008
ここは炭鉱があった町。
今はもう何もない。
そしてだれも住んでいない。


万字 007
ここにはかつて旅館がありました。たくさんの人が泊まったことでしょう。
見てのとおり凄い見た目をしています。


万字 009
ダルマストーブ朽ち果てています。燃料はこの地で採れます
一階部分の崩壊は凄まじく年月の流れを感じます。

万字 010
良い建材で建てられたのかしっかりしています。
じゃあ2階へあがってみます

万字 011
寂しいです。
光は時に残酷なまでに寂しさを映す。

万字 012
フルヤ ビスケット
現在でも星の数ほどビスケットはあるが、
ビスケットという言葉のなかに潜む
アナクロニズムを僕は感じてしまう。
外で遊んでいる子供は寒いのに短パンにサスペンダー
お下がりのお下がりのセーターを着て・・・・云々だ。


20131018225430cbd.jpg
復刻された壜の
この飲料を見かける事があるが
正真正銘当時のものだ。
中の液体が数十年の年月を経て
ここに存在している。




万字 018
日本旅館だ。
今もこんなに自然が見れる。
この廊下を給仕さんが通ったのか

万字 013
哀愁いっぱいだ。
裸電球が・・・・。
隣にはハチの巣がある。

万字 014
天然の木を加工をあまりせずに随所に配置してるが
この中央の木・・・・怖いです。

万字 019
脚付きテレビと植物


万字 016
カレンダーは1975年で終わっていた。
もちろん僕は生れてはいない。
自分が今まで生きてきた時間よりもこのままの状態で
現在に至るって。
すごくないかい?
ここの炭鉱はこのカレンダーの1年後に閉山しています。




検索でヒットしずらい様に
地名は書いてませんが
写真にマウスを乗っけると地名が出ます。
くれぐれも破壊などしないように
そっとしておいてあげて下さい。

空知炭鉱 

歌志内 003
空知炭鉱立坑
北海道炭礦鉄道 空知炭鉱(1890~1995閉山)
 約100年の歴史をもつ空知炭砿のシンボルであったこの立坑は本体を壁で覆う当時の最新技術を用いた構造を採用し、1950(昭和35)年竣工から1995(平成7)年の閉山まで使用されました。かつては立坑、選炭工場などが、沢沿いに展開しており、石炭生産システムの教科書のような炭鉱でした。現在は立坑と事務所のみが残っています。事務所は現在も使用されていますが、地下部分は閉山時に密閉されています。
※櫓の高さは地上約30m、深さは250m。(そらち産業遺産と観光より)



歌志内 004
上砂川の隣に位置する歌志内
かつてはここも炭鉱を中心とした産業で栄えた
今回は探索で訪れていないのでさらっと写真で紹介しよう。
歌志内東光地区にある立坑だが平日は大型のトラックがひっきりなしに
行きかっているのでこんな写真を撮っていたら怒られるに違いない。

歌志内 005
おそらくは元炭住か 何棟も連なっていた。
町並みはチロルの湯・道の駅を中心としたきれいな施設ばかりで整備されています。


歌志内 006
ここ歌志内には住友の炭鉱もありました。
先人たちの功績をのぞいてみると結構遺構は多そうです。

歌志内 001


歌志内 002
旧住友上歌鉱会館
1953年に職員の厚生施設として竣工、もともとは映画上映や舞台公演の会場として使用されていた。
閉山後はしばらく廃墟となっていたが、保存会により
修復され悲別ロマン座として内部公開もされている。




いつかまた歌志内に
来ます。

三井砂川炭鉱 

001_20131014222631b8d.jpg
三井砂川炭鉱中央立杭櫓(1896~1987)
北海道炭礦鉄道により、上砂川地区初めての炭鉱が開坑され三井鉱山に買収されたあと
最盛期には多くの坑口を持ち、北海道の三井系炭鉱では主力級の炭鉱であった。
1960年代からは大深度からの採炭を進めて生産性の向上に努めたが、1987年に閉山した。
閉山後、立坑と立坑櫓を利用した地下無重力実験施設
Japan Microgravity Center(JAMIC)として再利用されたが
コストなどの面から利用率が低迷し結局2003年に閉鎖された。
(wikiより抜粋)

002_20131014222647bfc.jpg
JAMIC入口
さすがにここは破る気にはなれない。
上砂川の町のはずれにあるが存在感と裏腹に近づく人はほとんどいない。

003_201310142227083fa.jpg
なおこの砂川炭鉱でも多数の方がなくなっている。
どこかの遠征の帰りに2度ほど寄ったがいずれも日が暮れてしまっていて
月夜に立杭のシルエットというものはなかなか無気味であった。
そして3度目の上砂川は朝から訪問して立坑の色にびっくりした
グレーに青い字でJAMICと・・・。

004_20131014222723300.jpg
立ち入り禁止と書いていたが気付かなかったので
立坑直下へ
ここまで炭鉱を感じさせないのはJAMICのせいだろうか・・。

005_20131014222740390.jpg
敷地内も荒れてはいない。
特に誰も気にしないのだろうか?

007_20131014222813917.jpg
というわけで斜め向かいにある
かみすながわ炭鉱館へ
抗夫の像が出迎えてくれた。
逆光は撮影において嫌われるが、僕はむしろ好きだ。

012.jpg
当時はごろごろ坑口があったらしいがその当時を感じれるものはこの炭鉱館
の中にしまわれているといってもいい。
当時北炭の寡占状態に対抗するため財閥系の炭鉱会社が次々と炭鉱を開坑させ
対抗していった。
砂川炭鉱は水で炭層を砕き排水もろとも炭を運び排水と石炭にわける
水力採炭方式を取り入れ効率化を図っていた。


010_20131014222849f76.jpg
近くにある悲別駅(上砂川駅)
有名ですね。誰も訪れている人は見ませんでしたが。

009_20131014222840844.jpg
上砂川
ここものどかな町である。
倒壊している家などもほとんど見受けられないし
炭鉱という痕跡は炭鉱館の中に保存されている。
町には立坑があるがきれいにペイントされて
あくまでも無重力実験センターの遺構という風に感じた。



しかし
運動公園の野球のスコアボードの後ろに見えてしまっている遺構や
ジェットコースターの軌道の下に見えちゃってるおどろおどろしい坑口
そんな街のほうがなんともいえない
魅力を感じたのも事実だ・・・。

















日本通運(株)上砂川営業所が廃だった件 

011_201310142229158c8.jpg
勤務先の事務員の方の出身が上砂川だそうで
あ、俺よく行くんですよーと。
のどかでいい所ですよね。

しかし現地ではこんな写真ばかり撮っている事も知るまいに。
看板が非常に廃だ。
錆びすぎている。



これだから田舎はやめられん。

旧住友赤平炭鉱 

001_20131014210455ce2.jpg
住友赤平炭鉱立坑
1963(昭和38)年に完成。総工費約20億円。
高さ43.8メートル、深さ650メートル。
住友赤平炭鉱は1938(昭和13)年に開鉱し、1994(平成6)年に閉山。
最盛期の出炭量は190万トン/年、約5千人が働いていました。

1895年に空知炭礦(歌志内市)の疎水坑が空知川に向けて開設されたのが、赤平最初の炭鉱着工と考えられています。 
その後1913年に下富良野線が開通し、沿線の炭鉱開発が急速に進みました。1918年に茂尻炭礦、1937年には豊里炭鉱、1938年に住友赤平炭鉱、赤間炭鉱と大手4炭鉱が開坑。赤平は石炭産業とともに発展し、1950年代には鉱業都市としてその最盛期を迎えました。
しかし、その後のエネルギー革命により炭鉱の合理化が進み、1994年の住友赤平炭鉱の閉山により約100年に及ぶ炭鉱の歴史に幕が下ろされました(Akabira city official web siteより引用)


002_20131014210510b24.jpg
鉄は錆びて赤い色をつけている。
平成6年まで稼動していたこともあって全体的に建物はしっかりしています。
現在も赤平のシンボルとしてかつてここが炭都だったことを伝えている。

003_20131014210521bd1.jpg
敷地内の建物。窓ガラスが割れて風が通り抜けていく。
誰もいない敷地に入った僕を大量のカラスが鳴いて警戒していた
すぐ脇の道路を走る車の人が怪訝そうに僕を見ていたのが印象的だった。

005_201310142105423a0.jpg
坑口浴場
浴槽が5つもあった坑口浴場。おおきいもので20mもあります。
当時は前述した立坑と地下通路で繋がっていました。
現在はどうなっている?今のこの足元に地下通路が?
見たくないかい?


006_20131014210621547.jpg
厳重だ。
一応草が生い茂る建物の周り一周しましたが入り口は閉ざされている
廃の香りは少しだけしました。

007_20131014210631498.jpg
赤間炭鉱原炭ポケット
・・・看板でかすぎやしないか。
どうやったって写る。どこの炭鉱を訪れても形状はあまり変わらないが
この独特な雰囲気を感じるのが好きだ。
この色。オーラが凄い

008_20131014210640b1a.jpg
写真家泣かせだ。
柵に入ってはいけませんと書いてましたが、この写真を撮るのに入ってしまいました
すいません
ちなみにこの赤間炭鉱は立坑の道沿いに少しいったらあります


010.jpg
そして横にはズリ山があります。こんなんされちゃあ登るしかないしょ
独りでさみしくそしてけっこうハードでしたが
たまたま先に登っていた二人連れにあいさつしつつ頂上へ


009_20131014214726ab5.jpg
遠くに立坑
夕暮れに炭鉱めぐる

004_20131014210530b14.jpg
秋がいよいよ近くなってきた。
あと何箇所訪問することができるだろう


011.jpg
闇夜にたたずむ
月光にて浮かんだ鉄塔
ああ美しきかな





Love Me Forever/Carlton & The Shoes  




Love Me Forever/Carlton & The Shoes
Jamaica(1968)/Rocksteady
studio1黄金期を支えた甘美なコーラスが特徴の
Rocksteady重要曲。
何度も探してやっと見つけたかと思ったら...
リイシューで盤反っちゃってるしなんて事もありーので
最近やっとオリジナル盤手に入れました。
個人的にもとても思い入れの強い曲


北炭幌内炭鉱 

201309261339111d4.jpg
幌内新炭鉱立坑(唐松)

管理地となっている新炭鉱の立坑を指をくわえて眺めてつつ
昨日同様に幌内炭鉱(景観公園)へと向かった。


015.jpg
安全灯庫(大正~昭和初期に建造)
当時の坑内の照明はブリキのカンテラに石油などを使用していたが坑道の延長により通気が不完全になり
ガスの発生で爆発の危険性も増加したため明治26年頃から安全灯が使われ裸火の照明が禁止された。
(説明看板より)


屋根は閉山後10年で崩落したが、外周はさすがのレンガきっちり残っている。
煉瓦は北炭が野幌で煉瓦製造所をつくりそこから各地の炭鉱施設に送られ使用されていたらしい

020.jpg
すぐ脇には鉱水の混じった沢がありたどっていくと密閉された坑口にたどり着きます
臭いはどうだったか覚えていないが水はヌルヌルしていた

022.jpg
音羽坑坑口(1879~)
音羽坑は明治12年に掘削された北海道最古の炭坑。
大坑道延長700m 幌内鉄道の 幌内駅とレールが繋がっており石炭が搬出された。
一般坑夫の8割を囚人で使役された。(案内看板より)


坑口の奥は700mの坑道は続いている。
前の沢はなんとも言えない青だ。


037.jpg
高低差のある地面に下に下りる階段があっておりていくと
そこはベルトコンベヤ原動室がある。
暗くてまともな写真が撮れなかったが奥のほうに電話が残っていた。
ものすごい廃の見た目だ。
054.jpg
バケツとトロッコの残骸が転がっていた。
ここまでくるとアブからよくわからないしつこい虫に交代
箱の形状をとどめていた気がしたが
足元に散らばっている木が多分そうだな・・。

057.jpg
もはやなんだか判らない。
姿を消すことができない鋼材は苔と共存する道を選んだ。

025.jpg
常磐坑本卸坑(1938年開坑~平成元年)
運搬系統の合理化のためベルト斜坑に改修。養老坑・布引坑をベルトでつなぎ
坑外の選炭場まで石炭を搬出した。 新幌内炭坑とも坑道が連結し出炭は常磐坑に集約された。
(案内看板より)

043.jpg
常磐坑副卸坑
扁額は落ちていない。本卸の扁額は密閉にそっと立て掛けられている。
ガス抜きの処理がされている。
足元は湿地然とした植物が生い茂っているが乾いている。
二つの坑口の間には神社があります

046.jpg
巨大なホッパー
大炭坑だったというのがわかる。興奮を禁じえない

052.jpg
強烈なインパクトをもって初幌内炭坑を満喫できた。
独特の雰囲気をもった場所だ
側面の穴に恐怖を感じませんか

060.jpg
写真を撮ろうと止まると瞬時にして虫がたかってくる。
しかし公園といえど高低差でいきなり遺構の屋上にでたかとおもえば足元には穴空いてるし
散策用の階段は階段は朽ち果ててるし危険な箇所もあります
ここをフリーにしてくれている三笠にはほんと頭が下がります

064.jpg
ホッパー内部
積み込みの機構には木が詰められています。
だいぶ日が暮れてきたが全部見て回るには時間がかかりそうだ
ここにきて動物の気配が藪の中に感じられます


067.jpg
水路を覆っていたアーチ状の遺構
長く続いている不思議な遺構だ

069.jpg
シックナーはあちらこちら痛みが激しいです
外周の塀によじ登り撮影

全然時間が足りませんでした・・・。
この記事を書いている来週
再訪を予定してます